存在したのか、そうでないのか。徐福と富士山の物語

紀元前3世紀に中国から大勢を連れて日本に渡り、縄文時代から弥生時代への大きな転換期を作り上げたのではないかと考えられている人物がいます。秦から日本に渡ったとされている、徐福です。
徐福は始皇帝に、東の方角に蓬莱・方丈・瀛州の三神山があり、そこに不老不死の薬があると具申します。すると始皇帝は、徐福に多くの財宝を与え、3,000人の家来を使わせ、その薬を見つけるように命じました。そうして徐福は東へと船を出すのです。そうしてたどり着いた地が、わが国日本だと言われています。

徐福が渡来したとされるのは、日本に史実などの生まれるはるか前の話なので、眉唾物だと思う方もいるでしょう。ただ、この徐福は、日本各地にさまざまな言い伝えとなって、今もその存在をしらしめています。

徐福が渡来し最初に降り立ったとされる九州地方では、佐賀県に多数徐福のエピソードが残っています。まず、佐賀市にある浮盃・寺井・千布という地名は、徐福伝説に由来するといわれ、古くから地元の人々に語り継がれてきました。
また、地元では、徐福と地元の娘のお辰との悲恋伝説も残っており、地元では知る人がいないほど有名だと言います。さらに、佐賀市に伝わる口碑によると、徐福は不老不死の仙薬を探すため、金立山に登り、地元の金立神社の祭神となったといわれており、「金立大権現」と呼ばれて祭られています。徐福が不老不死の薬だと言ったフロフキという葉は、今もここに自生しています。また、徐福が持ってきたといわれている樹齢 2200 年のビャクシンの古木も佐賀にはあります。このように徐福伝説は、佐賀市でさまざまな形で伝えられ、地元に融合し、口承や行事の中で生き生きと伝承されています。

また、徐福渡来伝承地として最も有力とされている、和歌山県新宮市と三重県熊野市も、徐福を語るうえで切り離せない存在です。徐福が向かった蓬莱は、このあたりの地域のことを指しているのではないかと言われています。JR新宮駅近くには、徐福の墓とされているものがあります。この墓碑には「秦徐福之墓」と刻まれています。墓碑の横には、徐福に仕えた7人の重臣を祀った「七塚の碑」もあります。また付近の蓬莱山という名前の山の麓にある阿須賀神社には、徐福の宮が祭られ、阿須賀神社の境内からは、戦後の発掘調査により、弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土しています。
熊野市にも、波田須・矢賀・釜所という地名は徐福がつけたものだとして地域に語り継がれています。徐福は養蚕や濃厚、医薬に至るまで様々な知識をその土地に教え与えたと言われていますが、この釜所は、徐福が製鉄を始めた所として伝わっています。
さらに新宮市と同じく、徐福の墓と徐福の宮が、矢賀の蓬莱山に祀られています。この徐福の宮には、神宝として徐福から与えられたという外来技術で作られた須恵器のすり鉢が伝わり、ご神体となっています。また、山からは焼物の破片や秦代の通貨「大型半両銭」などが出土しており、伝説と関連するのではとも言われています。

このような各地の伝説をもとに、徐福は日本に上陸し、南から富士山を目指したという説が濃厚であるという見方が、現在は強いようです。富士山に育つコケモモの実が薬になると聞いた徐福は、富士山に登り、何とか実を摘み帰国しようとしますが、ちょうどその時に始皇帝が亡くなった知らせが届きます。 悩んだ挙句、徐福とその家来は秦に帰らずに日本に残ることを決めます。徐福は、死ぬ前に鶴に姿を変えて、村の守り神のような存在になる、といったストーリーも、富士山麓の地域には残されています。
徐福は富士王朝の歴史に感銘を受け、古来日本の歴史が記された「宮下文書」を今の形に書き直したとも言われています。ごく最近、秦の始皇帝が東の霊薬をみつけてくるよう命令したお触書の木簡が中国から出土しています。歴史のミステリーのカギがもうすぐ開けられそうですね。期待感満載で事の推移を見守りたいと思います。

もちろん全国各地、北は北海道から南は鹿児島までいたる場所に徐福伝説があり、真実はわかりませんが、今も多くの人をひきつけてやまない富士山が、はるか悠久の徐福の時代までもその存在感を示し、あの険しい山頂に向かわせていたと考えると、とてもロマンがあります。
私たちが富士山に、なにか神々しい姿や畏怖の念を抱くのも、必然であるのかもしれませんね。

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