不死の道を信じるか

富士山は、その美しさからは想像もつかないような、火山としての一面も持っています。

紀元前3世紀頃、第7代孝霊天皇の代に富士山が大噴火し、地元に甚大な被害をもたらしました。人々は、富士山の噴火を「山の神の怒りだ」と恐れ、それらを祀るために神社を作りました。それが、静岡県富士宮市に位置する富士山本宮浅間大社です。全国に約1300社ある浅間神社の総本宮です。

源頼朝、北条義時、武田信玄・勝頼親子、徳川家康など、多くの武将がこの富士山本宮浅間神社にゆかりがあります。特に、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利したお礼として三十余棟を造営しており、慶長14年(1609)には富士山の山頂の噴火口内の散銭を浅間大社の社殿修理料にあてることを取り決めるなど、かなり強い執着をこの山に抱いていました。その後、富士山頂の所有権をめぐる争いの中で、ついに徳川幕府が富士山八合目以上を当社の境内地として正式に認めることとなります。その決定には、家康公の意向が大いに関わっているとされています。現在も、富士山頂の土地は富士山本宮浅間神社の所有地となっているのです。寛永や安政期の大地震で多くの建物が崩壊しましたが、本殿、拝殿、楼門などは家康が建てたものが残っています。

家康公が富士山に並々ならぬ思いを抱いていたエピソードは、これだけではありません。徳川家康は、生前に「自分の遺骸はまず久能山に埋葬して、後に日光へ改葬せよ」と遺命しています。ここの「久能山」とは、静岡県静岡市の久能山東照宮。家康公が晩年を過ごし、この地をたいそう大事に想っていたとされています。そして「日光」とは、言わずもがな世界遺産である日光東照宮。栃木県日光市に所在する、家康公を御祭神に祀る神社です。この家康が遺した言葉に出てくる2つの宮を地図上で直線で結ぶと、なんとそのライン上に富士山山頂がぴたりと重なるのです。しかもこのライン上には、主祭神を家康公とする世良田東照宮もあらわれます。徳川氏の先祖の出身地である世良田、これもまた特別な場所であると言えるでしょう。この一本線を「不死の道」と呼び、家康の埋葬は、富士山を中心にかなり計画的に設計されていたことがわかります。

さらに、久能山東照宮からまっすぐ西いけば、家康の生誕地である岡崎城も。家康公の生まれた場所と同じ緯度上に、遺骸の最初の埋葬地を割り出して設定したのではないかと言われています。

「不死の道」は、「江戸の風水師」として当時知られていた天海僧正が、地理風水に基づいて設計されたとされています。「永遠に死なないもの=神となって、永遠にこの土地を見守る」という意図が込められたこの名前、つまり家康公の霊魂が久能山から富士山を経て日光へ向かうことによって永遠不滅の神になるという思想につながっていきます。

「神の住まう山」として富士山に畏怖の念を抱いた家康だからこそ、天下統一を成し遂げたそのあとに、日本一の山をも自分の支配下に置きたかったのか。それとも、大好きな山と晩年を過ごした大好きな土地を死後もなお見守れるよう願ったのか。その真意まではわかりませんが、このような壮大な設計を生前に計画するほどには傾倒していたのがつたわります。

当社では、「不死の道」で触れた東照宮はもちろんのこと、その周辺地域一帯をめぐる富士山ツーリズムをご提供します。徳川家康と同じ目線で、富士山を堪能し、その場所の自然や文化に触れ、ラグジュアリーな体験を持ち帰っていただく旅にできれば幸いです。

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